
ぼんやりと目をあけると、部屋は陽の光ですっかり明るくなっていた。
ゆっくりと首を動かして枕元の時計に目をやる。10時半……いや11時半か。ずいぶんな時間だが、今日は休みだからいいだろう。さも普段はちゃんと朝起きているかのようないい訳を心の中でしながら、玖我なつきは上半身を起こした。
ふぁ、とあくびを一つしてから、四つん這いで反るように伸びをして、頭の上の耳をぷるるんと振る。
あれ?
何かおかしい。起きぬけの動作として違和感があるようなないような。ひとつ余計な動きが混じっていたのは気のせいだろうか。まぁいい、コンビニに朝飯でも買いに行こう。そう考えた時、枕元の携帯が鳴った。静留からのメールだと、画面で確認した瞬間、お尻のあたりで何かがサワサワと動いた。
うわっ!
慌てて立ち上がり足元を振り返ったが何もいない。気のせいか? 明らかな感触はあったのだが。とりあえずメールを読もうと画面を開くと、またお尻のあたりが動いた。だが振り返っても何もいない。くるくる二回転くらい回ったがやっぱりいない。
何なんだいったい。
再び携帯に目を落とす。”お早うさん、なつき。”静留のメールの書きだしを読んだら、今度はうんと激しく動いた。なつきはすかさず手を出した。手ごたえはあった。フサフサの毛でおおわれたそれを掴むと、なつきの体に衝撃が走り膝がくだけた。
なっ、ちょ、力が……抜ける。
とっさに手を離す。間違いなくそれは自分と繋がっていた。
慌ててバスルームに走り、鏡の前に立った。お尻を確認しに来たのだが、自分の顔を見て驚いた。垂れた耳らしきものが二つ、頭の上にのっかっていた。お尻を見るまでもなく悟った。生えているのは間違いなく尻尾だ――。

「奈緒ちゃーん。お昼ごはん作ったよー。もういいかげん起きなよー」
……ん? ……あおい? 相変わらず朝から元気だこと。あたしはまだ眠いっつうの。
「いつまで寝るつもりなの? もうすぐ12時だよ」
……なんだ、もう朝じゃないのか。それにしてもなんだろう、今日はいつにもまして眠い。昨夜はそんなに遅くなかったはずだけど。あれかな、この布団のふわふわ感がたまらないのかな。とにかく起きたくない。
「もう、奈緒ちゃんたら。ご飯全部食べちゃうよ。いらないの?」
んー。それは欲しい。さっきから甘い、いい匂いがするし。
「……何作ったの?」
「あ、やっとしゃべったね。メートーだよ!」
「めぇとぉ?」
「メープルシロップトーストだよ。ハニトーみたいなもん。食べるの? 食べないの?」
「……食べる」
それは食べとかなきゃ。うー、でも起きたくない……あっ。
不意にシーツを剥ぎ取られた。
「ほうら、食べるんだったら起きなさいって」
「ちょっと……なにすんのよ」
「ふふふ、ネコみたいにまるまっちゃって、かーわいい。はい、起きましょ……って……えぇ!? 奈緒ちゃん!?」
「……なによ、騒々しい」
ドタバタとあおいがベッドを離れて行く。ほんとやかましい。せめて布団ぐらい掛けていって欲しいんだけど。そう思う間に、早くもあおいは戻って来た。
「な、奈緒ちゃんこれ見てよ」
「は? ……今じゃなきゃだめ?」
「いいから、自分の頭見てみて」
あおいに無理やり渡されたのは手鏡だった。ど派手な寝ぐせでもついてるんだろうか。まだ寝てるんだから寝ぐせなんてどうでもいいんだけど。
早く早くとあおいがあまりにうるさいので、奈緒はしぶしぶ鏡を見た。
え?
思わず体を起こした。なんだこれは。
頭の上に耳が、ふたつ。なんで? 本物? 意識をそこに集中してみると、ぴくっと耳が動いた。まぎれもなく自分の体の一部だった。
「きゃーっ! 動いたぁ! かわいー!」
隣であおいが目を輝かせていた。普通引くとこだと思うんだけど。
「ねぇ、ねぇ、猫だよねこれ、猫耳だよね。奈緒ちゃん超似合ってるんだけど」
ふいにあおいの手が伸びて、ちょん、と奈緒の耳に触れた。背中に電気が走ったようにぞくっとした。奈緒は身を固くして目を閉じ、耳をぷるぷるさせた。
「あーん、かーわーいーい。やっぱ本物? これ」
「ちょっと、触んないでくれる! 引っ掻くよ」
あおいの顔にツメをかざし、フーと唸った奈緒を見て、あおいはますます喜んだ。
「きゃー! 猫っぽーい。写メ撮んなきゃ。携帯携帯」
あおいが携帯を探しにキッチンに走って行く。呆然と見送る奈緒の枕元で携帯がなった。メールだ。差出人である藤乃の名前を見て、寝ぼけていた頭が起きた。そうだ、あれだ。昨日、珍しいお菓子が手に入ったからと誘われて、玖我と二人で藤乃のうちに行った。
藤乃んちで食べたあれ、あれが原因だ――。
「なんだこれは。ただのビスケットじゃないのか?」
なつきが眉をひそめた。テーブルの上に並べられていたのは、子供が食べるような、動物の絵が描かれたビスケットだった。
「こんなもの食べさせるためにわざわざ呼びつけた訳? バカにしてんの?」
「ただのビスケットと違うんどす」キッチンで紅茶を淹れている静留が答える。
「どう違うってのよ」
奈緒は一枚ひょいと手にとって裏返してみた。裏側にもなんの変哲もない。一口かじってみたが、普通の味だ。普通に美味しいビスケットだ。
首をかしげる奈緒に続いて、なつきもビスケットに手を伸ばした。
「ただのビスケットとしか思えんのだが……」
紅茶を持って戻って来た静留が、テーブルにカップを並べる。
「そうどすか。紅茶はとびきり美味しいさかい、堪忍な」
「だから、味じゃなきゃ何が違うってのよ。適当な事言ってんじゃないよ」
カップに紅茶を注ぎながら静留がふふふと笑った。
「動物ビスケットなんどす」
「そんなの見りゃわかるっつーの。ガキのころ食べたわよ、こういうの」
奈緒はくってっかかったが、なつきはもうどうでも良くなったのか、紅茶を啜りながら黙々とビスケットを食べている。
席に着いた静留もビスケットを一口かじり、にっこりとほほ笑んで言った。
「動物の絵が描いとるだけやのうて、食べたら動物になるらしいんどす」
は?
奈緒となつきが顔をしかめて同時に静留を見た。
「あんたバカ? 何言ってんの?」
「こら奈緒、静留にバカとか言うのはよせ」
「今そんなことどうでもいいのよ。元祖バカは黙ってな」
貴様! と色をなしたなつきを手で制して、奈緒が続ける。
「本気で言ってんの? あんたドラえもん? なるわけないじゃん、どこで買ったのよそれ」
「商店街で買い物してましたらなぁ、黒ずくめのおじさんに声掛けられましてん」静留が紅茶を一口すする。「お嬢さん、あなた人生に退屈してませんか? って言わはるさかい、そうかもしれませんなぁ、って答えたんどす」
「なにそれ、怪しすぎるんだけど」
「何か望みがあればわたくしが叶えましょう、みたいなこと言わはるさかい、可愛いおなごはんに悪戯したいわぁ言うたら、このビスケットをくれたんどす」
「……今、さらっと言ったけど、あんた何その願望」
「食べて一晩寝たら、その人の性質に応じた動物の耳としっぽが生えるらしいんどす」
「信じたの? いくらで買ったのよ」
「お代はいただきません、て言わはるし、全然信じられへんかったんどすけど……なんや指突き付けられて、どーん! とか言われて、気ぃついたら受け取ってしもてたんどす」
「……どっかで聞いたような話ね。黒ずくめで、帽子かぶって、ずんぐりむっくりだった?」
「そうどした」
「名刺もらわなかった? ココロノスキマがどうとか書いたやつ」
「そういえばもらいましたわ。気持ち悪いさかい破り捨てましたけど」
まさか喪黒……福造? いんの? ほんとに。ウソでしょ。
「喪黒か、喪黒なら仕方ないな」
なつきがうんうんと頷く。ノーテンキだ、やっぱりこいつ。
「どないなるんやろ。明日が楽しみどすなぁ、二人とも朝起きたらメールおくれやす」
静留は笑って、ビスケットを口にした――。
ハッと我に返ると、あおいが目の前で携帯のカメラを奈緒に向けていた。
「写真とかやめてくれる?」
「えー、いいじゃん。一枚だけ」
「一枚も二枚も一緒でしょうよ。もし撮ったら、あんた殺すか携帯壊すかの二択だかんね」
「奈緒ちゃん怖い。せっかくかわいいのにー。千絵ちゃんにも見せたかったな」
しょげてうつむくあおいの目が、Tシャツ一枚だけの奈緒の下半身の辺りで止まった。
「どこガン見してんのよ」
Tシャツの裾を伸ばして足の付け根を隠す奈緒。
「ねぇ奈緒ちゃん、写真あきらめるからそっちも見せて」
「ちょっとあんた発情期のオス? 目が怖いんだけど」
「もしかしたらしっぽ、生えてるんじゃない?」
そういえば、さっきからお尻のあたりに妙な感触がある。手でまさぐると、毛の生えた尻尾らしきものがあった。自分で触ってもくすぐったい。
「……あるわ、確かに」
「やっぱりー。見たい見たい!」
目を輝かせて、あおいが覆いかぶさってきた。
奈緒はニット帽をかぶり、逃げるように寮を出た。
尻尾を見ようと迫ってくるあおいの腕をひっ掻いて泣かせてしまった。ちょっと可哀そうだったけどしょうがない、これ以上観察されたらたまったものじゃない。
さっきの藤乃のメールは、自分も動物になった、もし皆もそうなら、三人でこれからどうするか善後策を考えよう、という趣旨のものだった。自分で種を蒔いておいて人を呼びつけるとは、相変わらずいい面の皮だ。だが行かない訳にもいかない。なんだかんだ言って、元に戻す方法を藤乃は知ってるんではないかとも思えるし。
藤乃の家の近くまで来たところで、怪しい人物が目についた。きょろきょろと辺りを気にしながら、人とすれ違うたびに壁際に背中を隠して歩いている。
なつきだ。
キャップをかぶり、私服では珍しくスカートを穿いている。おそらく尻尾が邪魔でパンツが穿けなかったのだろう、スカートの裾からはふさふさの尻尾が見えている。人目を避けたくてコソコソしているようだが、かえって目立っていることに本人は気づいていないようだ。
電柱の陰に隠れて前方を窺っているなつきに、奈緒は音を立てずにそっと近づいた。忍び足が板に付いているのが自分でも分かる。さっきあおいをひっ掻いてしまったことといい、なんかどんどん猫っぽくなっているような気がする。
「あんた怪しさ全開なんだけど」
ぽん、と背中を叩くとなつきは飛びあがって驚いた。
「キャン!!」
涙目で振り返ったなつきを見て、奈緒は笑いをこらえる事が出来なかった。
「くくく……今キャン!って……」
「な、奈緒……貴様」
「キャンってあんた。ふはっ、ふはは……ちょっとお腹……痛いんだけど」
「うるさい! いきなり人の背後に忍び寄るんじゃない!」
ウー、と唸ってなつきが奈緒を睨む。
「ひひひ、うー、だって。うー。ふははは、ウケる。あんたさぁ、絶対犬だよね、犬」
奈緒はひょいとなつきのキャップを取った。藍色の毛におおわれた、垂れた犬耳がついていた。
「こ、こら! やめろ、人目についたらどうする、返せ」
「だーめ」
右腕を掲げて帽子を遠ざけ、なつきの目の前に左の手のひらを差し出した。
「なんだ? まさか金を払えとでも言うのか、貴様」
「お手」
「…………」
「ほら早く」
「…………」
「さっさとしな――あ痛っ! なに噛んでんのよ、この野良犬!」
「やかましい! 少なくとも貴様に飼われた覚えはない!」
なつきが強引に奈緒の頭のニット帽を剥ぎ取った。三角の猫耳が露わになる。
「ふん、やっぱりな。どうりでコソコソと忍び足が上手い訳だ。この野良猫が」
そう毒づいて、なつきはクンクンと鼻を鳴らし、手にした帽子の匂いを嗅いだ。
「ちょっと返しなさいよ。つか何してんのあんた」
「これで貴様の匂いは覚えた。今度忍び寄る時は風向きに注意しろよ」
「はいはい、ご忠告ありがと」
奈緒はすっとなつきに近づき、鎖骨から首筋のあたりに顔を寄せて頬をすりつけた。
「うわぁああっ、お、お前なにを……」
「マーキングよ。縄張りの」
「……お前本格的に猫だな」
「これであんたはあたしのシマ。あたしの子分」
「なんだと?」
奈緒はなつきの手からニット帽をひったくり、頭にキャップを戻してやった。踵を返して歩き出し、背をむけたまま手でこっちにこいの合図をする。
「ほれ、ついといで。玖我犬」
「……人を犬種みたいに呼ぶな!」
静留の部屋の玄関の前で、奈緒となつきは深呼吸をした。すぐに呼び鈴を押す気にはなれないのだ。お互い顔を見合わせて眉間に皺を寄せた。
「罠かもしれんな」
「そりゃ罠でしょうよ。そもそもこうなる事を期待してビスケット食べさせたんじゃん、あいつ」
「どうなる? 私達は」
「悪戯されるんじゃない? その役はあんたに任せるけど」
「……引き返すか」
「とはいえ、このままじゃ元に戻る方法わかんないからね。虎穴に入らずんばなんとやらよ」
肩をすくめる奈緒を見て、なつきはふぅ、と溜息をついた。
「虎の穴、か……。静留は……何になってると思う?」
「さぁねぇ……大蛇とか」
「へ、蛇!? 爬虫類とかありなのか? 耳もないし、どこからが尻尾なんだ」
「体じゅう尻尾みたいなもんだからねぇ。部屋に入ると、とぐろ巻いた蛇の上に藤乃の顔が――」
「よ、よせ、やめろ。気持ち悪い事を言うな」
「きっとあんたは全身に巻きつかれて……頭からガブって」
「ひぃいいいっ」
「愛されるのも楽じゃないねぇ」
「……いいかげんな想像はよせ。静留が蛇なら貴様など蜘蛛だろうが!」
「あたしが虫? 気色悪いこと言わないでくれる!」
言い争っていると、不意に玄関のドアが開いた。ひぃっ、と仰天して身を寄せ合う二人。
「なんや騒がしい思たら。あんたら来たはったんやね」
顔を出して微笑む静留の姿に、二人は二度びっくりした。

「二人ともよう似合うてはりますなぁ。かえらしわぁ」
お茶を淹れて戻ってきた静留が満足げに微笑んだ。
「わんことにゃんこやなんて、ほんまイメージ通りどすわ」
奈緒は溜息をついた。なんとまぁ嬉しそうに。案の定、こいつだけはご機嫌だ。
「あのねぇ、なにのんきな事言ってんのあんた」
咎める奈緒になつきが同調して口を尖らせる。
「まったくだ。恥ずかしくて外を歩けないじゃないか。たまったものじゃない」
だが、そのふて腐れた口調とは裏腹に、なつきのお尻のしっぽがパタパタと揺れた。静留に可愛いと言われたのがまんざらでもないらしい。犬の尻尾は正直すぎてツンデレ系には致命的だと奈緒は思った。
「大丈夫どす。ずっとそのまま、いう訳やありませんし」
「なんでそんな事分かんのよ」
「動物になるんは、丸一日ぐらいのもんや、言うてはりました」
静留がさらりと言った。
「喪黒が?」
「そうどす」
「なんでそれを先に言わないのよ! なら寮にこもってればよかったんじゃん。のこのこ出てきちゃったじゃないよ!」
「あん、ええやないの。せっかく動物になったもん同士、顔合わせなもったいないやんか」
ごきげんな静留が優雅にお茶をすすった。静留は満足げだが、奈緒にはどうしても指摘しておきたいことがまだある。
「あと一つ納得いかない事があるんだけど」
「なんどす?」
「なんであんたがウサギな訳?」
白いウサギの耳をつけた静留が、かわいらしく科を作って問い返す。
「おかしい? 似合うてへんやろか」
「似合ってなくは、ない」
奈緒より先に尻尾を振りながら隣のなつきが答えた。確かにバニーガールみたいでありっちゃありだ。だが、問題は似合うかどうかではない。
「どう考えてもあんたはウサギって柄じゃないじゃん」
「せやかて、うち目ぇ赤いし」
「……中身と関係ないじゃんよ」
「なつきがおらんと、さみしゅうて死んでまいますし。な? なつき」
「あ、あぁ、そうなのか……。私にはよく……分からんが」
静留に目線を送られて、なつきが赤くなって目をそらす。尻尾をちぎれそうなほど振っている。奈緒はうんざりした。尻尾のせいでこの二人のやり取りがいつも以上に痛い。
「あんた間違いなく肉食でしょうが。キャベツとかニンジン齧って満足できるようには見えないんだよ」
「そんな人を猛獣みたいに。怖がらんでええのんよ、猫ちゃん」
「おっかないつぅの。どうせなんか企んでんでしょ」
どうにも納得いかない。疑わしい。ウサギの皮をかぶった狼なんじゃないか? 奈緒の本能が危険を告げている。猛獣じゃないとしても、エロバニーである事は間違いない。それによく見るといかにもウサ耳は作りものっぽい。あたしのも玖我のもこんなにリアルなのに。
「まぁ、いいわ。なんかヤバそうだし、ここにいてあんたらのやり取り見てたらお腹いっぱいになりそうだし、あたし帰る」
寮にはあおいや命や鴇羽たちいてじゃまくさいが、奴らのウザさと藤乃のアブなさ。どっちのリスクを取るかだ。いや、寮にも帰らず漫喫にでも泊まればいい。
立ち上がった奈緒になつきが続いた。
「じゃ、……じゃあ私もそろそろ」
「まだええやんか、来たばかりやのに。なつき、お座り」
言われて、立ち上がりかけていたなつきが反射的に正座した。すっかり犬が板についてきたようだ。主従関係がよく分かっている。
「はい、生贄決定。玖我、藤乃の相手はあんたに任せるわ。しっかり遊んでおやり」
「な、奈緒」
そう言ってすがるような目で奈緒を見るなつきの頭を一撫でして、静留は立ち上がった奈緒をさらに引きとめる。
「寮に戻ったらようさん人いてはるし、なにかと面倒なんと違いますん?」
「あんたの方が面倒」
「もしかして、寮に帰らんと繁華街で夜明かしする気やないやろね」
「……だったらどうなのよ」
「そないな危ない事、うちが許しません」
静留の目つきが変わった。
「ここにいる方が危ないっつ……う……の……」
あれ? なんか体に力が入らない。
静留が四つん這いになって奈緒に近づいてくる。
「こない可愛い仔猫はんを、餓えた雄の群れに放す訳にはいきませんなぁ」
少しづつ近づいてくる静留の目線を奈緒は外せなかった。
なんだ藤乃のこの眼は。ウサギの眼なんかじゃない。逆らっちゃいけないと、頭ではなく本能が勝手に反応してしまう。金縛りにあったように体が言う事を聞かない。膝がカクカクしはじめた。
あ。
腰が砕けて、すとんと尻持ちをついてしまった。
静留が尚も迫って来て、奈緒の足の甲にそっと触れた。言う事を聞かない体は後ずさりもままならない。太ももを閉じ、スカートの裾を押さえて身構えるので精いっぱいだった。
静留は奈緒の眼を見据えたまま、少しずつ、覆いかぶさるようにして顔を近づけてくる。
「逃がしませんえ? ここにおってくれるよね」
「え……っと」
どうしよう、逃げられない。まずい、このままじゃ。
そうだ……耳、耳がきっと急所だ。自分もさっきあおいにちょっと触られただけでびくってなった。ウサギの耳ならなおさらのはずだ。
奈緒は震える手を精一杯動かして、目の前に迫る静留の頭上の耳を、必死の思いで掴んだ。
だが――。
静留は微動だにしなかった。簡単に、ウサギの耳はもげた。いや、とれた。案の定ニセモノだったのだ。その下に生えていたのは、髪と同じ色の丸い耳。
……やっぱウサギじゃないじゃん。
奈緒はちょっと頭をずらして静留のお尻を見た。四つん這いになった静留のスカートの裾からは長い尻尾が出ていた。短い毛でおおわれて、先っぽが黒い……。動物園で見た事がある。ネコ科の、いや肉食獣の頂点だ。
ああ、そうか。そんなに格が違ったのか。あたしに敵う訳ないじゃないか。
「うち、なんかお腹すいてきたみたいやわ」
次もし動物になる機会があったら、せめて豹くらいにはなりたいな……。
奈緒は観念して目を閉じた。
オーッホッホッホッ。
喪黒の笑い声が聞こえたような気がした。
目を閉じて大人しくしてると、なんとも愛らしいなと静留は思った。頭を撫でると、奈緒は少しだけ身を固くした。
「ほんまにお腹、すきましたなぁ。サンマ買うときましたさかい、帰らへんのやったら奈緒さんの分も焼きますえ」
「え?」
奈緒が目をあけて瞬かせた。
「……えっと、サンマ?」
「そうどす。どないします?」
「……食べる」
ほな、と言って静留がキッチンに去って行く。冷や汗を拭う奈緒になつきが寄って来た。
「奈緒、無事か?」
「え? うん……。マジで喰われるかと思ったわ」
「くくく、しかしまぁびびってたなお前。猫とライオンじゃ無理もないが」
「うるさいわね。あたしはあんたと違って藤乃のセクハラに慣れてないのよ」
「ばか、私だって慣れてる訳じゃない」
ぼそぼそと言い争っていると、二人は静留に大根おろしを頼まれた。かわりばんこでおろし終わった頃、サンマが運ばれてきた。
「あんたさぁ、もうちょっと綺麗に魚食べらんないの?」
「うるさいな」
「それにさ、ししゃもじゃないんだからマヨネーズつけるのやめてくれる? 見てて気持ち悪いんだけど」
「味の好みにまでとやかく言うな。何様だお前」
「ねぇ藤乃、あんたいったいどういう躾してんの?」
「ふふふ、なつき、奈緒さんみたいに綺麗に食べないかんえ」
「くっ、静留まで……。こうなったら骨まで食べてやる」
「言ってるそばからなにワタどけてんの。そこが美味しいんでしょうが」
「……こんな苦いもの食えるか」
「あんたってほんとガキね」
「貴様さっきからごちゃごちゃとやかましいぞ! 黙って食え」
じゃれあいながらサンマを食べる二人を、静留は微笑ましく見つめていた。
えらい可愛い犬と猫。
餌付けしたら、すっかりご機嫌になっている。
静留もずいぶん空腹だったが、どうしても魚を食べる気にはなれなかった。肉が、食べたい。
二人ともほんまに美味しそう。ちょっとお酒でも飲ませて酔わしてしまおうか。
「藤乃、あんた食べないの?」
「そうだ静留、お前も一緒に食べよう」
静留は牙を隠してにっこりと微笑んだ。
「うちは、あとでゆっくり」
二匹、いただきますさかい。